LOGIN大学一年生の渡辺浩二は流されるままに演劇研究会に入部する。 人生の中で演劇に関わるなんて考えたこともなかった。 けれど一ヶ月後の公演を控えた演劇研究会での活動に徐々にのめり込んでいく。 自分の変化に戸惑いつつ、大学での日々は過ぎていく。
View More( )内はあだ名。
沖教授 聖北学院大学福祉学部心理学科長。
「お菓子でも食べなよ」 「漫画もたくさんあるから、自由に読んで」 口々に先輩たちから声をかけられる。部室の中には天井に届きそうなくらいの高さがある本棚に漫画がたくさん並んでいた。背表紙の文字が赤い少女漫画もけっこうあるみたいだった。部室ってどこもこんな感じなんだろうか。大学だからだろうか。「先輩先輩、俺は?」 松本も歓待を期待したみたいだ。「ガジン」 見学前に会った背の高い先輩だ。にこにこしている。見学した時に田中と呼ばれていた。後で知ったが、松本は|雅人《まさひと》という名前で、サークル内でのあだ名は音読みのガジンになっていた。「はい」 「ジュース買ってきて」 先輩がお金を出す。「ちょっと俺のことももてなしてくださいよ」 「最初にもてなしただろ。忘れた?」 「そうですけどー」 「コーラね」 そう言ってお金を受け取り松本は出ていった。知らない人たちの中に取り残されるとどうすればいいのかわからない。早く戻ってきてほしい。「渡辺くんは高校までどんなことしてたの?」 女の先輩が聞いてきた。たしか前田先輩だ。このまえの稽古でみたかぎり、メインの役を割り当てられている。「えぁ!?その、高校では部活とかに入ってなくて、毎日小説読んでました」 「へー、そうなんだ。文学青年だね。ゴウくんとかと話合うかもね」 前田先輩はうんうん、とうなずく。普通の小説も読んでいたが、ライトノベルの方をたくさん読んでいた。でもそれは言うまい。「あいつ本は読むけど、ミリオタだからな。変に染められるかも」 ミリオタってなんだっけ。「おはようございま〜す」 部室に入ってきたのは一緒に見学していた女子学生だ。たぶん一年生だと思う。「お、橋本おはよう」 「おはよう」 「裕子ちゃん、新入部員増えたよ」 おっとりとにこにこしている山崎先輩が僕のことを紹介してくれた。裕子というのはたぶん橋本さんのことだろう。
僕は数学が嫌いではなかった。心理学を学びたかったので高校では文系を選択したが、数学も物理も化学も得意科目だった。だからというわけでもないが、履修単位数にまだ余裕があったので数学を選択科目で選んでいた。線形数学という種類の学問らしいが、講師は高齢の男性だった。 授業が始まり、話を聞いていたが最初から何を説明しているのかわからない。おかしい。予備校に通っていなかったが、学校の授業だけで微分は理解できていたので、僕の数学の能力は低いわけではないと思うんだけど。上の空で聞いていたわけではない。最初からある程度集中して聞いていたはずだ。けれど何を言っているのか理解できない。なんだろう。授業を聞くレベルに達していない感じがする。小学一年生が高校数学の授業を受けているような。 講師が想定しているこのくらいのことは理解できているだろう、という前提の上で授業が始まってしまっている。うん、これはだめだな。と感じたが、それでも理解しようと努めた。無理だったけれど。 今日は四コマ目で授業は終わりなのでサークルが始まるまで、まだ二時間くらい余裕がある。四コマ目も松本と同じ授業を受けていたので、流れで部室へ行くことになった。 サークル棟二階の真ん中あたりにある部室へ向かう。中学生のときは、部活に入っていたが部室はなかった。高校では部活自体に入っていなかったので、自分が所属する部室に入るのは初めてだ。「お疲れ様でーす」 松本は慣れた感じで部室に入る。「失礼します。ええと、この前見学させていただいた渡辺です。演劇の経験はないですけど、入部したいと思います。よろしくおねがいします」 僕が挨拶すると、中にいた数人の部員が「お〜!」と歓声をあげ、拍手が沸き起こった。注目されて恥ずかしい。拍手されることも最後がいつだったのか覚えていない。「まあまあそんなとこにいないで座って座って!」 十二畳くらいあるフローリングの部室の真ん中には大きなテーブルがあり、椅子が八脚置かれていてまばらに部員が座っていた。真ん中の椅子をひかれたので大人しく座る。
聖北学院大学はキリスト教系の大学だった。もちろん僕は一般的な日本人のように無宗教だ。強いて言えば、先祖のお墓や法事は仏教系なので仏教なのだろうか。お墓参りで南無阿弥陀仏くらいしか言ったことはないけど。仏教の中で分かれている宗派があるのだろうけど、まったくわからない。キリスト教だから選んだわけではなく、心理学に一番力を入れている札幌の大学がここだったので選んだだけだ。 キリスト教に全く興味がないかと言うとそうでもない。僕はアニメが好きでよくみているが、数年前にカルト的な大ヒットをしたアニメがキリスト教の影響を多分に受けていたので、どんな宗教なのか気になっていた。必修授業でキリスト教関連の科目があるので、人生で初めて聖書を買った。 松本とは同じ学科なのでかぶっている授業も多い。「キリスト教の世界」という授業が行われる教室へ行くと松本が座っているのが見えたので声をかけた。「おっす。隣いい?」 「おー渡辺。どうぞどうぞ」 僕は松本の隣に座ってかばんから聖書とルーズリーフとペンケースを取り出す。松本が一人で座っていてよかった。もしそうでなかったら声をかけられなかったかもしれない。僕は人付き合いがとても苦手だ。「演劇サークル入ることにしたよ」 「まじで!?ありがとう、超うれしい!」 松本はおおげさに喜んでくれた。僕も少し嬉しくなった。「いやいや、役者はちょっと俺やる自信ないけど、物語は好きだから演劇にも興味あったみたいだ」 「すげーありがたい。演劇やる男子少ないからさ。高校の時も、演劇やってる男子は俺一人だったし」 「え、そうなの?見学したときは先輩たちの男女比おなじくらいだったけど」 「それは俺も驚いた。なんだろうね。大学生になったら、恥ずかしさとかなくなるのかな」 「たしかに、俺のいた高校でも演劇部の男子いなかったな。つーか松本さあ、入学前から入部ってなんかこう、問題とかなかった?」 「いや全然?なんかサークル棟に管理人いるけど、なんにも言われなかったよ。先輩には部室の鍵借りる時は学生番号書かなきゃいけないから入学するまで管理人に声かけないように注意された」 「そうなんだ。肝す
演劇サークルには、結局入ることに決めた。家族には驚かれた。自分でも驚いているから、まあそんな反応になるだろう。「どうしたの、突然」 母にそう聞かれた。「いやまあ、誘われたし、裏方の仕事もあるし、嫌いではないから」と、答えになっているようななっていないような返事をした。なぜ入る決断をしたのか自分でもよくわかっていない。役者をする気はないけれど、演劇というのは人の内面を掘り下げるものだと思う。自分を制御したいという、僕が心理学を学ぶ理由に通じるものがあるような気がした。 サークル活動は、土日以外の午後六時から午後九時半までなので、家には遅く帰ることになる。食事の支度と後片付けをしている母には迷惑をかけてしまう。けれど話してみたら受け入れてもらえたので安心する。僕はあまり自分の望みを言ったことがなかったからだろうか。 一週間ほどで履修登録期間が終わった。わりとパンパンに授業を詰め込み、月曜から金曜の朝から夜まで授業を受けることになった。聖北学院大学の授業は一コマ(大学では一時間目、二時間目とは言わないらしい)九十分だ。長い。高校まで一時間は五十分だった。だいぶ長くなってしまったが、まあそのうち慣れるだろう。たぶん。 一コマ目は午前九時から十時半まで。二コマ目は十時四十分から十二時十分。昼休みが午後一時まで。三コマ目が午後二時半まで。四コマ目が二時四十分から午後四時十分。五コマ目が午後四時二十分から午後六時。長い。高校では六時間目が午後三時過ぎまでだったので、だいぶ授業時間が伸びた。とはいえ、一コマ目から五コマ目まで全てのコマに授業予定を入れているわけではないので、そこは絶対に授業予定がある高校とは違っていた。